昭和50年12月01日 特別奉修委員会
まぁご祈念中に、いっぱいこのシダが生えておる所を一生懸命誰かが開墾をしておる所を頂きました。シダて植物のシダです。けどもシダと言う事は、この死んだ田と言う事になる。いうなら不毛の地と言う事にもなりましょうかね。そう言う所を耕して肥料を施して、そしてあの良い種を蒔けば、そのどんどん良いものが熟れてくると言う様なね、おかげを頂かなければならないと言う事ですが。私達がどげな信心すりゃおかげ頂くじゃろうかというのじゃなくて、なるほど是じゃおかげ頂かんはずだと。
自分の心自分の心の中のシダをね、まぁシダの部門をはっきりする事ですよ。どげんすりゃおかげ頂くじゃろかじゃなくてお話をいただきゃ頂くほど、おかげ頂かんはずと。まず自分のその心をね。あの見極める事。なるほどこげな不熱心な事では、おかげ頂かんはずと言う事。ね、そしてなら本気で熱心にもならせて頂こう。本気でおかげの頂けんはずだというそれも、取り除かせて貰おう開墾もさせて貰おうと言う事にならなきゃおかげにならんと思うね。
夕べ丁度秋永先生と話を終わったのが一時半まででした。それから文男さんが足もみに来てくれて、丁度一時間足もんでくれとる間に、先生が話します事に、たまたま創価学会の話が出たんです。そこも私が昨日あのなんか「池田大作」さんが書かれたあの、人間革命かなんかという本がね、あの子供達が買うてきとったです。ちょっとそればちょっと見せて頂いておった話をしたらです、その文雄さんこういう話をしました。
僕ん所のその縫子さんにね、ちょっと頭はまぁ7部か8部ぐらいしかなかげな。なにもさせてあんまり、やっぱちった足らんちゅうわけでしょう。所がその男の方で裁縫の稽古ばしてね、裁縫だけは何かきちっとしたものをやっぱされる、らしいんです。その人がその創価学会に進められて入った動機がね、あんたが日に百辺ずつお題目を唱えてから、十年続けたら必ずおかげ頂くというのに、まぁあのほうそげんするだけで、おかげ頂くならばちう訳でね、創価学会に入ったそうです。
それからもうとにかく日に百回ずつのお題目を朝晩唱えてですね、もうその小屋んごたる家住んじゃったげな。そしたらあんたやっぱ十年後には立派な家を、まぁ買うてですねそして今まで、例えば2枚縫いよったつを3枚縫う様になったち。それからならどういう事かというと、その創価学会の信心をするようになって、そのまるまる元気が出てきて、それでそれだけの時間をですね。
それから又仕事も早くなったと言う事もありましょう。なら今日の朝のご理解じゃないですけれども、それだけ時間をねいわばあその大切にする様に成ったと言う事でしょう。それが言われるのにもう、色んな会合がとても良いそうですもんね、創価学会は。もうそれには絶対欠かした事がない。それで「うめや」さんあんた方がいくら忙しかったっちゃ私が御本部に参る時だけは出来ませんよというて、もうそりゃはっきりした事だそうです。もう本当にあげな男があがしこ儲け出いた。
やっぱりそのお題目のおかげだとまぁ自分もいい、人にも話しているという話を聞きましてね。果たして本当に今日の御理解頂いておかげ頂かんはずだと、皆さんが例えばなら朝晩のご祈念をどの位しよるじゃろうかと。ポンポンと手をうってから休ませて頂く。ありゃ忘れとったちゅう様な事もありゃせんじゃろうかと。こりゃもう私達の場合なんかはもう、こりゃもう絶対でした。もうどんなに酔っ払って帰ってきてもです、大祓一巻あげなきゃ休みませんでした。
もう家内の母が感心してから、もう家のとうちゃんだけは、もう是だけは感心ちゅうてから北京の時代ですね、いうておりましたが、もう矢張り信心はそういう一つの絶対のものがなからにゃいかんです。これなんかはね例えばなら別に、その難しい話を聞く事もいらん。改まる事もいらん、磨く事もいらん。ただ拝むだけでいいのです。所がですなら百遍何妙法蓮華教、何妙法蓮華経ばいよるならですね、その間に心が私は清まりもすりゃ、静まりもするだろうと思うですね、やっぱ。
だからその静まったり、清まったりする間におかげの頂けれる所謂心のシダがですね、シダを開墾する事が出来るわけです。その上改まりもする磨きもする。成程自分のおかげの頂けんとはこういう根性じゃおかげ頂かんはずだというものを、先ず分かってそのそれを取り除く事の稽古に精進したら、おかげ頂かん筈はない。いやお徳を受けん筈ないです。金光様のご信心。
金光様のご信心はどこまでも、おかげを頂くじゃなくて、お徳を受けるという信心です。ですから私は本当にあの合楽の人達は、お話はよく聞くけれども、ご祈念をおろそかにするもんねというて言うた事でしたがね。これはやっぱ本気でね、あのこりゃもう絶対のものとしてです、それこそ何妙法蓮華経でもいいですよ。本気でなら百遍ずつ毎朝晩唱えるという。ならあの何時か御本部参拝をした時にある教会のご信者さんのグループがですね、生神金光大神様有り難う御座います。
生神金光大神様有り難う御座います。で一生懸命拝みよった。ちったおかしゅうごたる感じじゃったけどね。けれども成程天津祝詞を知らんなら、大祓ば覚えとらんならば、それでも良いとも思うです。百遍唱えるなら。朝晩。しかもその文男先生がいってましたが、その娘達やら息子達がね、皆ついていっておる。この頃はもう何時行ったっちゃその、青年の人達がですね、そこに来てから話を聞きにくるそうです。
創価学会のどうしの人達がね。だから本当に是はあの他宗教の事ですけれども、あの見習う所は見習わなきゃいけんなぁと私は思うんです。たまたま私は昨日そのその人間革命か何かっていうこのご本ですけども。「戸田、戸田じょうせい」とかいう方ですね、二代、先代の創価学会を開いた人は。人間革命というこれはあの、あの戸田さんの実録をば少しばっかり名前を変えたりしてから、まぁ小説本に書いてあるもののようですけれどもね、その中にね、二年間監獄に入っておられるですね。
何か思想犯でまだ、いわゆる戦時中のことですから。それでその時にあの自分の11歳になる子供に書き送っておられる手紙がのっとりました。それにね君の一番都合の良い、良い時間を知らせてくれって。御題目を百編そして唱えてくれて。お父さんと僕と一緒に同じ時間にお題目を百遍唱える。それでね必ず僕あの監獄の中と、シャバとのこう感覚はあるけれども、離れておるけれども、必ず親子の交流する道が開けると言う事を、11歳の子供に書き送っておられるんですね。
これはもう絶対の意です矢張り。例えばご祈念ならご祈念、私が4時のご祈念を、金光様のご祈念に例えば合わしてご祈念をすると言った様な事は、金光様と交流しないはずがない。例えば実際の子供にすらですね、そういう例えば仕付けをしていくと言う事ですよ。ですから本当にあの、もう少し私はご祈念を丁重に。もうとにかくさっきお商売がこう、まぁ不如意だと言った様な事があった。
ならもう色々その愚痴を言うたり、不足を言う暇があるなら、御神前にいって一生懸命なら大祓でん、あげさせて頂いて。お客さんの見える事をお願いをする。ご祈念終わったはぁお客さんが見えとったちゅうごたる体験をですね、えて頂いてそして朝晩ならこれはもう一つの決まり。もう何時のご祈念という風にですね。本気でご祈念。成程ご祈念させてもらう精進が、そう言う事もたりない。だからこれはねお題目だけでも、そのこれは改まるとか話聞く事もいらん。
一生懸命なら百遍も唱えてからただお役目にね、あの帳面けしな拝み方じゃだめです。神様を拝むと言う事は。それこそ百遍なら百遍の生神金光大神のを唱えると言う事を修行と思うて、10年間それこそ続けたら必ず家の一軒ぐらい建ちますよ。是は金光様なら尚更の事。ですからねただ願う事、頼む事だけが、そしてどうしておかげ頂けんじゃろうかと。言う様な事であって、おかげの頂けない元が自分の中にある事、所謂シダが自分の心の中にいっぱい茂っておる事。
それをね成程ならそうでしょうが。もう家庭が不和であると。だからどうぞ家庭が円満になりますようばっかりおがんだっちゃ、円満になる筈ないです。どこが不円満のもとになるか。はあオヤジがこげなこっちゃ円満にならんはず。奥さんがこげんな事じゃ子供たちが言う事聞かんはずだと言った様なものを、まず改めなければ円満になる筈ないです。そこをお縋りしていかなきゃいけないです。それをそのただ円満になります様にだけではいけないと思う。しかもその性根を込めてですね。
ならご祈念でもさせて貰う。しかもこりゃもう行のことさせてもらう。そしてなら自分のひざの面を発掘させて貰う。開墾させて貰うという生き方をさせて貰う所から、おかげ勿論お徳が受けられ、おかげが頂かれるという風に私は思うですね。今私が頂いたのは、そのシダと言う事からね、成程おかげの頂けん筈だちゅうものばいっちょ自分の心から発見しなさらにゃいけませんよね。
どうぞ。